自分の「親友」が大学卒業をして社会人になるというタイミングで、notionに過去の思想・考えをまとめたエッセイを見せてくれたことで触発され、自分も久しぶりに哲学的なことを綴っていこうと思う。
このような日記を書く目的を一様伝えておくと、「人生に対する余白の時間」を強制的に作るためだ。社会人になって盲目的に本業と副業に時間を割いてきた。それによって得れた「今」があるし、「4月末で退路を断つ」という決断もできた。ただ、一歩立ち止まって内省してみると大学生の時よりも圧倒的に自分が本当に感じていること(主には哲学的・社会学的な内容であるが)について深く言語化する時間を確保できてなかった。
もちろん全力で働く、そしてその道路の対価として一定のお金をもらうと言うのはこの資本主義において普遍的なことであるし、自分もその対価のレベルを上げていくために、他の人が体験するようなレジャー・娯楽・飲み会などに参加せず、一人黙々と作業してきた。しかし、過去出会って自分が「すごい」と思えた人というのは基本的に思考のレベルがぶっ飛んでおり、哲人のような思考の深さをしている人がほとんどで、一般的に余白を持って資本主義を生きている人であることも知っている。
4月からセルフブラックで自分の命を投資し、資本主義の荒波に小舟で突撃していくという物語が始まろうとしている時に、しっかりと立ち止まって、船が進むべき方向性を修正していくためにも、「余白」を生む時間をこの哲学的日記を通して書き綴っていこうと思う。
1回目のテーマは「孤独」についてだ。
自分は孤独に立ち向かっている人が大好きだ。というか尊敬する。
人は誰しも1人になることを恐れ、群れを作る。まあ人間とは社会的な動物だからこそ、1人になることを極端に恐怖してしまうプログラムが生まれた時から組むこまれていることは正直事実だ。
人と違うことをする。それだけで勇気がいる。レールから外れてしまうことで嫌われるかもしれない。嫌われることで、今まで培ってきたコミュニティに拒絶されるかもしれない。そういう不安に負けて、「孤独」になれない人が多い世界こそ、この世界の常。
敬愛する三木清先生が「孤独は山になく、街にある。」といったのは実に興味深い。孤独とは1人でいる時に生まれるものではなく、他者がいることで生まれる。そしてその他者が赤の他人であればあるほど、孤独のレベルが高まり、より一層孤独感は増していく。
しかし、やはり孤独に打ち勝つことで成長できると思う。誰の目も気にせず、誰からも関心を持たれず、ただひたすら自分という自我を保ちながら生きていく。無関心が一番人間にとっては辛いのに、それに打ち勝てる人間。それこそ孤独を受け入れ、孤独と共に人生を歩んでいける人間力が高い人であると考える。
道を外すということは孤独と共存していくということ。孤独を愛し、孤独に愛される人間になりたい。
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